昭和50年09月17日 朝の御理解



 御神訓
   一、「神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさ。」
   一、「神は声もなし、形も見えず、疑えば限り無し、恐るべし。疑いを去れよ。」

 私共信心させて頂いておる者から見ましても、信心のない人達の気の毒だなあ、哀れな事だなあと思う事が沢山ございます。本当にあれに信心があったらなあと思う様な事が周辺に沢山あります。それにはなら、私自身が信心頂いて居ると言う事の、有難さと云うものを日々感じておれなければ出来ません。信心しよるばってん、一つもおかげ頂ききらん、信心のない者の奉が余程具合い良うやって行きよるごたる。
 と言う位の事ではでけない訳です。ですから私はここの、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと言うのは、これは勿論神様の眼から御覧になったものだと思うです。真の道も知らん、信心の道も知らん、教えも聞かない。それでも矢張り結構哀れどころか、それこそ信心のある者が返って羨望、羨ましい位な生活をしている人はまた沢山あるのです。お金はある、立派なお家に住んで御座る。地位名誉もある、家庭も仲々円満にいっておると云う様な家は信心がなくてもありますよ。
 けれども信心の有難さと云うものは、そういうものではない。また哀れさと表現しておられるのは、何処までも神様の眼でご覧なさったのであり、同時に私が思うのは、この世での事は大した事ではないと思う。お互いが必ず魂の世界に、いわゆるお国替えのを頂かなければならないと言う事は、これはもう絶対のものでありますが私共がね。霊の世界での姿と云うものは真の道も知らず、踏まず教えも頂かずに魂の清まりも願わずに、お徳も持たずにあの世に行っている者の姿が、実は哀れだと言う事で御座います。
 だから惟は、どうでも神様の眼からご覧になった私は言葉だと思います。段々信心も手篤う頂いて勿体ない、有難いと言うおかげを頂いてそして自分の周辺を見回してみて、本当に信心のない人達の言う事する事のね、まあ本当に気の毒い事じゃ哀れな事じゃと言う、それを感ずる事は沢山御座います。けど真の道も信心の道も知らなくてもです、なら皆が本当に羨ましいと思う位に、言うなら哀れどころか本当に素晴らしいと云う生活をしている人があるのです。
 だから私はギリギリの所是は私共が霊の世界に入っての事だと思うし、又同時に私共がこの世に生まれて来た事が、もう真実この世に人間に生まれて来た事が大変な事だと言う事だ。仏教的に云うならばですもうそれこそ何千年何万年かかってようやく人間に生まれて来た。仏教的に云うならば本当に牛に生まれたり、犬に生まれたり猫に生まれ変ったり様々に生まれて生まれて、生まれ変わらせて頂いてでなからなければ修行を積まなければ人間に生まれて、この世に出て来られないと言う程しに言われておる。
 もう言うならば千差一遇私共がこの世に生を受けてこの世に生まれてきたと言う事は。だから又そういう悲しい世界に、哀れな世界に入って行くのではなくて、言うならばこの世でより、あの世での方が、云うならば永劫の幸せを頂こう。それを仏教的に言うならば、極楽の世界に住まわせて頂く事の為に、私共はこの世に生を受けて、そして本気で魂を清めておこうと言うのが私は宗教のギリギリの願いだと思うですね。
 もう四、五年も前だったでしょうか。日田の綾部さんがお参りになって高芝さんと二人でお参りになった。高芝さんが娘が近くに居りましたので用事があると言うので行かれた。私もここを退りましたから、そこの控え室でお茶でも上げながら、高芝さんの帰りを待っておった待っておられた。そういう時に綾部さんに色々お話をさせて頂いた。とにかく綾部さん、この世にはね私共は確かに魂を清めげに来とるとですよと。
 この世にはと言う途端にあそこのアラス戸を締めて話よりましたが、ガラス戸がはじき割れる様な大きなおいさみがあったですよ。今でも綾部さんとこの事を、本当にあの時のおいさみは凄まじい。凄いあれでしたなと、確かに私共はこの世にね、楽しげに來とるとかね、と言う事ではなくてね。もうどうせこの世ではね、太く短くと行ったような事を言う人がありますけれども、確かに私共はこの世にね、魂を清めに来とるとです。だからそういう大変な事であるにも拘らず。
 魂を清めると言う事は他所にみて、只我情我欲いっぱしで、この世で終って行くと云う事は大変な哀しい事です。神様の眼から御覧になりましたらね、こげな哀れな話はないです。それをお互い様々な所からご縁を頂いて、場合には様々な難儀な問題から御縁を頂いて、助けて頂きたいおかげを頂きたいと言う事から始まってそして本気で、信心とは本心の魂を研くものだ、信心とは日々の改まりが第一と言う、信心の大眼目に気付かせて頂いてその問題を通して研こうその問題を通して。
 改まらせて頂こうと言う生き方にならなければ、矢張り信心をしておっても、只おかげに終始するなら矢張り哀れです。神様から喜んで頂くと言う事は、私共が本気で魂を清めようと云う事に気付かせて頂いた時に初めて神様の、言うならやれやれ安心、あの氏子はこれから魂を清めて行く事に、気付いたと言う所が、神様の安心であると同時にお喜びであると思いますね。そこでです次の御神訓には、神は声もなし形も見えず疑えば限りなし、恐るべし。疑いを去れよとあります。
 本当に無神論の方達が言う事を聞いて居ると、成程と合点がいく位に神様というのはあるかないか分からんのです。姿がないのです声がないのだもの。それを私共が神様を実感する。昨日日吉先生の所で芦屋の教会の御信者さん方が三名でお参りになりました。それは一人の方が乳ガンと診察を受けて早川さんのお導きで参って来て、お願いをして頂いておかげを頂いてもうそのぐりぐりもなからねば痛みも無い、本当に不思議な神様だからあなた方も一辺参んなさいと言うてその御信者さん方を連れて参って来た。
 所が不思議な事にそのお乳のぐりぐりも痛みもなくなったが、目と目の間の小鼻の所が兎に角急に痛みだしたと云うのです。だから初めの間は気付かなかったけど、是はまだこげなお願いをしてこげなおかげを頂いて、お礼参りもしないからじゃろうと思うて参って来たと云うのです。だからね、信心をさせて頂いておかげを頂く。有難いと云うその心を土台にして、お願いをせなければいけません。只苦しいから困っておるから只お願いしますと云うのは、半信半疑で願うてもやはり大したことはない。
 おかげ頂いてその有難いというその心で願わなければならない。土台が違う。只お願いをするだけではいけません。あなたがその乳ガンと言われて、おかげをそれこそ不思議に掻き消す様におかげを頂いて、もう二ヶ月もなりますでしょうか。その取次をさせて頂いて。本当に不思議な神様じゃ有難い神様じゃと、その有難いと云う心で言わば小鼻の所が痛むと云うお願いをなさらなければいけませんよ。そりゃそうどこじゃ御座いませんと、云うておられました。
 おかげを頂いとると言う事はそれだけではありません。目も見えよる手も動きよる。足も動きよるもうおかげの世界に住んでおる。そのおかげをおかげと実感する。そのおかげの実感を土台にして、それでも痒い所があれば痒い痛い所があれば痛い、と言うて願うのですよ。だから有難いと言う心を土台にして、願わなければいけません。只苦しいからどうぞどうぞお願いしますでは、それは願いでも大変な違いになる。と言うて私が丁度その時に実感しておった事をまあ聞いて頂いた。
 昨日ね丁度此処ではお湿りがあっておりました。昨日はね此処の合楽教会の秋の総会があったんです。此処の山部の平原公園と言う所で、大体は十六日大祭一ヶ月前の十六日と云う事じゃったけれども、今年から十五日と秋の総会は変わった。そのお届けがあってから十五日に変わらせて頂いたおかげで、昨日はあんなにお天気で所が今日は見てみなさい。夕立雷さんまで伴うてしかも土砂降りであった。もう私は今その事を思いながら、有難いと思うておった。
 あちらで青少年育成何とか館とかと云うのがあって、そこは大体十五日はお休みであったのですが、そこの館長さんが合楽教会の方達が見えるならその日も出勤してあげましょうと言って出勤して下さって貰うて、その家も貸して貰うたが。もう本当にね私はそれこそ折り詰めに詰めた様にね、キチッとあそこの育成会館の広場がキッチリ合楽の人達でいっぱいになった。あれが多かっても少なかっても、ガランとするでしょうし、多かったら外へ出らなければならなかっただろう。
 しかもあの広い板張りにこげな大きなご座があるじゃろうかと云う様な大きなご座が何枚もお供えになっておって。その新しいご座を敷かせて貰って、しかもその合楽の者だけで、キッチリ一ぱいにならせて頂く程しのおかげを頂いて、しかもああ云うお天気に恵まれて、思うて見ると15日変らなければならなかった事が、改めて分らせて頂いて、お礼を申し上げておるとこだとその話をさせて頂いた。
 そしてお話をさせて頂きよりましたら御心眼にね、大きな袋をいっぱい、何かを詰めて上の方をやっとかっと結ばれると言う所を頂いた。だから総会の日の一日の神様の働きと云うものは、もう筒いっぱいのおかげを下さってあったと、多かならもう結ばれん所じゃった。ちっと多いから出にゃんもん外に。それが丁度筒一ぱいの袋を、筒一ぱいにこうやって結んでおる所を頂いた。そのお知らせを頂いて私は思うのです。例えば毎日合楽に今千名近くの方達がお参りを致します。
 お届けがお月次祭ともなると千二、三百名です。これだけは降ろうが照ろうが必ずあるのです。皆さん今日は一つ此処んにきを分かって頂きたいと思います。今日一日、例えば御無礼すると云う事は、例えば此処に高芝さんが参っておられるが、高芝さんが参って來んでん誰がか参って來るです。ですからどうでも自分もそこに入れて貰うとかにゃ馬鹿らしかと云う気がします。合楽では例えば毎日です、十万なら十万円と云うお初穂が上がるとしましょうか。
 これは誰がお供えしなくても絶対十万円はあるのです。勿論これは十万、十五万、二十万と上がるに違いありません。けど現在のところで毎日十万のお下がりがあるとするならばです、これは誰が参って來なくっても、誰かお供えしなくっても必ず十万円はあるです。それが合楽の徳です。毎日千人の人がお参りをする。誰が参って来なくってもです。今日朝の御祈念にお参りがえらい少なかったと、云いよると夜の御祈念に沢山参って來る。これはもう合楽が持っておる力です。受けものなんです。
 ですからここで私共が分からなければならない事は、例えて云うならば、十万円のおおさがりが合楽にあるならば、十万円の中に自分もせめて百円なっと二百円なっと入っておかなければね、馬鹿らしいと云う気がしますね。もう俺が毎日お供えしよる一万円が、一万円お供えせじゃったけんコロッと合楽では九万円しか無かろうと言う事は絶対ないです。必ず思いも掛けない人が一万円はお供えしとるです。そしてつづめが合うていくです。お参りだってそうです。
 そう言う所を見、聞き体験さして頂くから、成程神は声もなからねば姿も見えないけれども、神様の姿は見えないけれども、神様のそういう働きを見、聞き感じる事が出来るのが合楽教会だと思うですね。昨日のお話の中に申しました様に、直方の行本さんが毎日ああして日参なさいます。ちょうどその十五日の夜の富久信会に発表しておられましたが、それこそ親子代々何十年間の信心で、直方の〇〇教会は自分の爺が建てたと、いう程しの熱心な御信者さんであった。
 自分も若い時には高橋正雄という、大変当時それこそ高徳な日本一の先生と云われよった、高橋正雄先生という先生がおられました。その先生のところに二年間も修行にやらされた。親がやらせられたと云う位熱心であった。それでも云うならば、どまぐれ、どまぐれと云うとおかしいが、けどやっぱりどまぐれですよね、もうお酒は飲む、マージャンはする、ポカンポカンどこまでも出て行きなさるとが、病気でした。その事がもう十四、五年も前だったでしょうかね。
 鳥栖の上野さんのお導きで、鳥栖の上野さんのお父さんがそのお店に勤められた。その事から当時の椛目にご縁を頂いたのが初めでした。初めはお母さんやら、奥さんだけであったけれども。もう最近では自分が主になって、そして直方地区の共励会は是非自分の処で、こりゃもう大した神様がお祀りしてあるそうですね。教会の事あるそうでしょう、そして代々続いたお家ですから。それでもね、神様を感じる事が出来なかった、分からなかったと言うとるです。
 それが合楽に御神縁を頂きときどきお参りしよったらです。疑うにも疑う事の出来ない程しの物を頂いて、今では日参しなければおられないと発表しとられました。合楽にお参りしておると神様をうたがうにも疑う事が出来ない物に触れるんです。そこに神は声もなし姿も見えないけれども、うたがえば限りないのだけれども、疑うと思うても疑えないと言う事実にね、出会う事が出来ると言うのです。そこで疑いを去って一心にです、その前の真の道を分からせて貰い。
 神の教えを頂かせて貰うてです、本気で魂を清めて行く事の喜び楽しみと言う事が出来た時にです、私共は神様が言うならば、それが出来ない人の上に信心があっても、信心とは魂を清めることだと云う事を知らずに過ごしておる人達の上の事を、または信心がない者でも勿論の事だけれどもです、神の教えも真の道も知らぬ人の哀れさと言う事になるのです。信心しておっても真の道も知らん教えも聞かん、只おかげだけを頂くと言うのはやっぱり哀れと云う一語に尽きます。
 この世でおかげを受けておるから、あの世でもおかげを受けると言う事ではありません。魂の清まる度合が助かりです。ですからこの御教えはこの世の事ではない、私共があの世に行っての姿です。ほんとにこの世で信心しよるけど、魂を清める事には、ちょっとも精進しようとしないならば矢張り哀れである。ましてや信心はしなくってもです。そりゃお金はあるけん、困った事はないから。
 内輪は具合いよく行きよるし、健康ではあるから神様仏様は私だん言わんで済むと、云う人達は本当に信心のある私共が羨ましいと思う様な事があるけれども、この世の事でない、そういう人達がお国替えのおかげを頂いて、初めて分かるのが霊の世界。ああしもうたと云うたらもう遅か。又千年も万年もそれこそ、牛やら馬に生まれ代わりながら、又人間に生まれて來る事を待たなければならない。
 これは分かり易く云えばそう言う事ですよ。これは仏教の言葉を借りて行ってます。と云う事にならなければならないと言う事は、如何に哀れであるかと言う事が分かるじゃないですか。この世に生を受けたと言う事はもう千載一遇、大変な神様の御都合があって、この世に生を受けて居ると言う事実をね、私共が分からせて貰うて、しかもこの世には五十年か、八十年長生きして百年。
 その百年の間に本気で魂を清める事を分からせて貰うて、あの世でのおかげを、願わせて貰わなければ本当に哀れな事、になると言う事です。二三日前に福岡の戎浦さんと言う方のお宅の霊祭を奉仕させて貰いました。お父さんが十五年、それから兄弟達の方が何か悪い病気でしょう、流行病か何かだったんでしょう兄弟三人が同じ月に亡くなっておられます。それが心にも掛りながらです、その霊祭が出来なかったんです。
 それを丁度お父さんの十五年に当たるので、十五年の式年祭をさして頂いてそしてその兄弟達の霊様にも慰霊のお祭りを併せてして頂きたいと言う事で御座いました。霊様のお喜びもさる事でしたけど、それを奉仕された戎浦さん達も大変おかげを頂かれた。そのお父さんの霊様の場合なんか、もうああ云う生き生きとした花が指してある中に一本だけ大きく枯れたのが入っておる。だからその生き生きとした花までもその枯れた花の為に値打がないと言う感じの、言うならそういう邪魔なものがある、障害がある。
 その霊の位も一段と進みいよいよ安心の霊、喜びの霊として霊ながらの働きが出来る様なおかげを頂く為には、霊も霊ながらに精進しておるし、又一段と信心の境地が開けて行くのです。人間と同じです。ところが障害のある為に、障害を乗り越えられないでおる所に、そのお祭りによってその障害を取り除くと言う働きがあったのが今日のお祭りだったですよと言う事でした。
 お互いの場合だってそうでしょうが。朝参りしようと思うが障害があってお参りが出来ない。だからその障害を取り除いて障害を乗り越えてお参りをする事になるのです。霊様でも障害があると前に進まれんでおる。それから三人の霊様の場合は此処にお呼びする事には非常に骨が折れたです。私はもうそれこそ、とにかく分かり易く言うならね。霊様は霊様なりに天地の親神様のお許しを頂かねば出来んのですから、言うなら色々手続きが難しくて此処に來るのが大変ひまどったと言う意味の事でした。
 これなんかはもうまちっと遅いならば自分達はもう立ち上がられない霊としてもう仕舞える所でしたと言う意味でした。もうあざみの花が踏み倒されてはまた咲き、踏み倒されてはまた咲くと言うもうあんまり次々と踏み倒されてもう根の方に腐れが入っとると言う感じでした。私がお知らせを頂いたのは、もうそういう間一髪と言うときにです、霊様をまた新たな処へお救い申し上げる事が出来たと言う様な、お話からでも霊様の世界で、哀れな人達の霊の姿というものを、皆さんが感じて頂かねばいけません。
 皆さん所辺りの霊様はどう言う事になっているでしょうか。二十三日がここの霊様の秋の霊様の御大祭、霊祭が御座います。昨日日田の伊藤さんがお参りされて、霊様関係の事を色々此処の霊様のお祭りが始まる前にはね、必ずその前後にはいろんな働きがあるんですよ。だから必ず玉串が上げられる様にして、その日はお参りなさらなければいけません。ならあちらの霊様やら、仏様の戒名とか名前やらを書いて来たら良いでしょうかと。惟は尚良かですよ。
 またそしてそれにお供えでもさして頂く様な真心があればまた有難いですよと、言うてお話をした事です。皆さん合楽に御神縁を頂いておる程しの方達の係り合いのある霊が、全部ここに見える事になるです。その為に私は二十二日の晩は遅くまで殆ど徹夜して。その霊様達の整理をさして頂きます。翌る日の霊様の祭りがスムーズに行く様に、そして何時も思うんですけど、もう本当に有難い事ですけど、取次者冥利と言うのは霊祭の時に一番それを感ずるです。
 皆さんが分からない、皆さんが知らない、皆さん家の根である所の霊様達が助かられる、その喜びの声を聞くと言う事がもう私は本当に取次者冥利を感じます。皆さんの所で仏教あたりでしておる所で、絶対助かっとらん霊も沢山あるでしょう。だからその合楽の二十三日のお祭りには皆さんに関わり合のある霊様が見えるのですから、玉串の一つもそれこそ玉串の中取り持たせて頂いての、おかげを頂かねばいけません。
 まあその中に今日私は、この御神訓と言うのが霊様の世界に助かってない信心のなかった霊達、真の道も知らなかった霊達のあわれさを今日はこの御理解に、うたってあると感じたからこの御理解を聞いて頂きました。この世でおかげを頂いておるだけではいけません。私共は霊の世界に入らせて頂いてそこで安心の霊、喜びの霊としてのおかげを頂かせて頂く事の為に、いよいよ本気で魂を清める事第一にさせて頂くところの信心修行がなされなければいけません。
 お願いをするでも只どうぞお願いしますと言うのではなくて、喜びと言うか有難いと云うものを土台にして願わなければいけません。昨日乳ガンでおかげを頂いたと言うて来た人が、それこそ自分のとは乳ガンじゃなかったと思いよるとじゃないでしょうか。ところがおかげを頂いて、この目と目の間が痛んで仕様がない。そこで初めて気が付いたのが、お礼参拝しとらなかったからだろうと云うて。
 またこの事の御礼参拝と云うよりも、此の事のお願いに見えた。そして三人の方達をお導きして参って来たけれども、だから先ずその乳ガンのおかげを手術もせずにおかげを頂いたと云う事をです、先ず御礼を申し上げて、その喜びを土台にしてお願いをなさいよと私が申しました様にね、先ず喜びとか有難いを土台にして痛いなら痛い、痒いなら痒いを願わなければ、同じお願いでも神様が受けられる。
 受け具合いが違いなさると言う事を今日は聞いて頂いたですね。おかげを土台喜びを土台としての願いでなからなければいけない事。そこから必ず疑おうにも疑う事の出来ない程しの神様を頂く事が出来る様になるでしょう。神の教えも真の道も知らんじゃない。教えも分かり真の道を踏ませて頂いて、是ならばあの世で極楽行き間違いないと自分の心に感じられる位な信心を頂きたいものですね。
   どうぞ。